ふ、と目を開けた時、リディアは自分がどこにいるのかよくわからなかった。目を開ける一瞬前のことももう朧気で、やけに鈍い思考と重い身体のことを訝しがるまでにも数瞬かかった。
瞬きして視界を遮っても、目に映る風景は変わらない。リディアの部屋ではないと言うことは、わかる。そしてカールトン宅ではないということも。
部屋の隅に飾られた花や、ベッドの周りを囲えるように吊されたカーテンを見ると病院の個室のようにも思えたけれど、それにしては豪華だ。淡い、柔らかなピンクを基調にした天井や壁紙は上品で、電飾も小さいながらに凝っている。どこかのホテルかしら、とリディアは考えたが、自分がそんなところにいるわけがわからない。
そう、何で自分は居場所も分からないところで寝ているのだろう。
リディアは眉をひそめた。やっと頭が動き出して、同時に不安が彼女を襲う。調子が悪いと思いながら夜遅くまで手紙を書いて、早朝にその手紙を投函しに出かけたはずだ。近道だからと公園を横切ろうとして…それから、どうなったの?
緩慢にしか動けない身体に力を入れて、上半身を起こす。と、腕が何かに引っ張られた。同時にちくりと痛みが走る。
「………点滴?」
「やあ、おはよう。気が付いたんだね」
唐突に聞こえた男性の声に、リディアは身を固くした。振り返り、思わず目を見開いて、見とれる。
彼はとても整った顔立ちをしていたが、それだけならリディアはある意味見慣れている。彼女の目を引いたのは光を弾いてなお煌めく金糸の髪と、そして奥底が決して見通せない、覗いてはいけないと知りながら目が離せなくなる、不思議な魅力を持った灰紫の瞳だ。
思考回路が鈍いせいもありしばらく惚けていると、青年は不思議そうに首を傾げて近づいてきた。若い男性だ。リディアよりも二つ三つ年上と言ったところだろう。白衣を着ているけれど、医者なのだろうか?

「秘密の花」(医者と患者)より



「ただいま、リディア」
「おかえりなさい、エドガー」
車のエンジン音で気づいたのか、玄関の扉を開けたらはにかんだ笑みで迎えてくれた新妻に、エドガーは掛け値なしに満面の笑みを浮かべて帰宅を告げた。
シンプルだけれど所々にフリルをあしらった可愛らしいエプロン姿のリディアをぎゅっと抱きしめ、頬に口づける。こうして一緒になってまだ日が浅いリディアは奥方と言うには拙い印象を受けるけれど、それでも彼女なりに夫婦という二人の新しい関係に馴染もうと努めてくれている。その証拠に、抱きしめたら緩く抱き返してくれるようになった。肩に額を乗せて、エドガーが安らいだようにゆっくり呼吸するのを、じっと感じていてくれる。
抱きしめたリディアが身じろぎするのにあわせて腕を緩めた。奥から食欲をそそる匂いがしてくる。
「いい匂いがする。今日はシチュー?」
「ええ。ジェフがレシピを教えてくれたの。彼みたいにうまくはできないけど、昨日の夜から煮込んでたからきっとおいしいわよ」
ジェフはアシェンバート家お抱えのクックだ。リディアとジェフは仲が良く、よく厨房に行っては彼に秘伝のレシピを教えて貰ったりしているらしい。彼女にとって、今回のシチューは合格ラインを超える出来だったのだろう。にっこりと笑う顔は上機嫌で、エドガーもつられて嬉しくなる。楽しみだな、と言いながらダイニングへ向かった。
「リディアの手料理が毎日食べられるなんて、僕は本当に幸せ者だよね。妖精たちに全部食べられる前にいただこう」
リディアと結婚をする以前はずっと、広いダイニングに一人きりでジェフが作る料理を食べていたが、結婚をしてからはそのスタイルをがらりと変えた。エドガーはリディアが作る料理を、二人で過ごすのにちょうどいい大きさのプライベートルームで食べ、ジェフには特別に頼む時以外はエドガー以外の使用人たちの料理だけを作ってもらい、普段はリディアの手料理を堪能することにしたのだ。
 大きな厨房を彼と共同で使うことにリディアは最初戸惑っていたが、大柄なジェフの豪快で大らかな性格にすぐ親しみを覚えたらしく、今では彼を筆頭にする厨房の人間と仲良くやっているらしい。
 婚約者時代から着実に料理の腕が上がっていくリディアに、エドガーも満足げな笑みを浮かべる。リディアが作ったものなら何でもおいしく食べられるという自負はあるが、料理が成功するとリディア自身もにこにこしているので、胸がほっこりしてくるのだ。
 本当にいい匂いがする。外に出て緊張していた身体が緩み、急激に空腹を意識した。リディアがエドガーの腕から抜け出して、食器を取り出しにかかる。ふと気付いたように振り向いて、首を傾けた。
「すぐに夕食にして良いの? 汗を掻いたなら、シャワーも使えるけれど」
ご飯にする? お風呂にする? と無邪気に問いかけるリディアに、エドガーは笑顔で応えた。
「リディアが食べたいな」

「蜂蜜色に溶ける」(新婚さん)より



エドガーはぱちぱちと瞬きをし、それからゆっくりと顔中に笑みを広げていった。久しぶりに見た彼の心底からの笑顔に、リディアは思わず目を奪われる。
子供の頃から綺麗な人だったけれど、成長してさらに綺麗になったみたい。ぼんやりと考えていたら、さりげなく伸びてきた腕に抱きすくめられた。胸に抱え込まれて、頭にそっと頬を擦り寄せられる。
「…エドガーってば」
「リディアって結構小さいよね」
離れようとしたリディアに抵抗するように、エドガーは腕にぎゅっと力を入れた。簡単に離してくれないということがわかると、リディアは嘆息して力を抜く。
「エドガーが大きくなったのよ」
「うん……そうかな、そうだね。逢わなかったのがたった数年だなんて信じられないな。君と再会するまでに、僕は一度人生を終えた気がする」
リディアの背中に回っていた手が移動して、優しく髪を撫でていく。何度も何度も繰り返す動作に促されて、リディアはそっと目を閉じた。
エドガーの言葉に何かを言う気にはなれなかった。逢わずにいた数年間は、リディアの想像力では追いつかないくらい、彼にとって過酷なものであったのだろうから。
「ねえ、リディア。僕の妖精。一生傍にいてほしいんだ」

「それは祈りの声に似た」(幼馴染み)より