それぞれの冒頭1ページを載せておきます^^*


「ただいま、リディア」
「おかえりなさい、エドガー」
車のエンジン音で気づいたのか、玄関の扉を開けたらはにかんだ笑みで迎えてくれた新妻に、エドガーは掛け値なしに満面の笑みを浮かべて帰宅を告げた。
シンプルだけれど所々にフリルをあしらった可愛らしいエプロン姿のリディアをぎゅっと抱きしめ、頬に口づける。こうして一緒になってまだ日が浅いリディアは奥方と言うには拙い印象を受けるけれど、それでも彼女なりに夫婦という二人の新しい関係に馴染もうと努めてくれている。その証拠に、抱きしめたら緩く抱き返してくれるようになった。肩に額を乗せて、エドガーが安らいだようにゆっくり呼吸するのを、じっと感じていてくれる。
抱きしめたリディアが身じろぎするのにあわせて腕を緩めた。奥から食欲をそそる匂いがしてくる。
「いい匂いがする。今日はシチュー?」
「ええ。ジェフがレシピを教えてくれたの。彼みたいにうまくはできないけど、昨日の夜から煮込んでたからきっとおいしいわよ」
ジェフはアシェンバート家お抱えのクックだ。リディアとジェフは仲が良く、よく厨房に行っては彼に秘伝のレシピを教えて貰ったりしているらしい。彼女にとって、今回のシチューは合格ラインを超える出来だったのだろう。にっこりと笑う顔は上機嫌で、エドガーもつられて嬉しくなる。楽しみだな、と言いながらダイニングへ向かった。
「リディアの手料理が毎日食べられるなんて、僕は本当に幸せ者だよね。妖精たちに全部食べられる前にいただこう」
リディアと結婚をする以前はずっと、広いダイニングに一人きりでジェフが作る料理を食べていたが、結婚をしてからはそのスタイルをがらりと変えた。エドガーはリディアが作る料理を、二人で過ごすのにちょうどいい大きさのプライベートルームで食べ、ジェフには特別に頼む時以外はエドガー以外の使用人たちの料理だけを作ってもらい、普段はリディアの手料理を堪能することにしたのだ。
 大きな厨房を彼と共同で使うことにリディアは最初戸惑っていたが、大柄なジェフの豪快で大らかな性格にすぐ親しみを覚えたらしく、今では彼を筆頭にする厨房の人間と仲良くやっているらしい。
 婚約者時代から着実に料理の腕が上がっていくリディアに、エドガーも満足げな笑みを浮かべる。リディアが作ったものなら何でもおいしく食べられるという自負はあるが、料理が成功するとリディア自身もにこにこしているので、胸がほっこりしてくるのだ。
 本当にいい匂いがする。外に出て緊張していた身体が緩み、急激に空腹を意識した。リディアがエドガーの腕から抜け出して、食器を取り出しにかかる。ふと気付いたように振り向いて、首を傾けた。
「すぐに夕食にして良いの? 汗を掻いたなら、シャワーも使えるけれど」
ご飯にする? お風呂にする? と無邪気に問いかけるリディアに、エドガーは笑顔で応えた。
「リディアが食べたいな」
「却下するわ」
笑顔で即答され、くすくすと笑う。昔は真っ赤になって狼狽えていたというのに、ずいぶんと強くなったものだ。それだけエドガーとの触れあいに慣れたということなのだろうけれど。
手を伸ばして、左耳の下で一つに束ねられている長い髪に手を伸ばす。ヘアゴムを取り去られた髪がはらりと散るのを眼を細めて眺め、一房取って口づけた。
「残念。でも、デザートには極上のキャラメルをいただくからね」

「蜂蜜色に溶ける」(新婚さん)より



ずっとずっと遠いところ、幼いリディアには妖精の世界よりよほど別世界に思えるロンドンから、とても偉い貴族さまが来ると、噂好きの妖精たちが言っていた。貴族さまがどんなものかをリディアは知らないから、ただ漠然と偉くて、強くて、物語の英雄たちのような人を思い浮かべることしかできなかったけれど、その想像は彼女をすくみ上がらせるのに十分な威力を持っていた。
英雄は悪いものを倒すものだ。怪物や悪魔、アンシーリーコートや、魔女と呼ばれる人間を倒し、人々に称えられて英雄になる。
リディアは幼いながらに、自分の瞳の色や妖精が見える能力が他人にどう思われているのかを知っていた。取り換え子と呼ばれたり、あからさまに魔女と罵られることもあったのだ。
あたしを殺しに来たんだ。
そう思い込んだリディアは、半泣きになって母親のもとへ急いだ。暖炉の灰をかきだしていた母親の背に思いきりぶつかるようにして抱きつくと、優しい青い瞳が驚いたように見下ろしてくる。
「リディア、どうしたの? 転んじゃった?」
「母さま、きぞくさまがくるって、ほんとう?」
「ええ、ひとつ丘を越えた向こうに林があるでしょう? あそこに別荘があるのよ。しばらく使われてなかったみたいだけれど……リディア、それがどうしたの?」
「あ、あたしを、ころしにくるの?」
しゃがみこんで目線を合わせてくるアウローラに必死に縋って訴えると、金色の髪をさらりと揺らしながら彼女は首を傾げた。
「だって、だって、きぞくさまは、わるいものをたおすんでしょう? あたしは、取り換え子で、魔女かもしれなくて……!」
「リディア」
涙が溢れそうなくらい瞳を潤ませているリディアを抱き上げて、アウローラは困ったように笑う。
「あなたはあたしの子供。可愛いあたしの子供が、魔女であるわけがないわ。それにねリディア、貴族さま……シルヴァンフォード公爵家の方は、ご子息の身体を癒すためにこちらに来られるのよ」
だからあなたが心配することはないの。優しく髪を梳かれて、リディアは湿った睫毛をぱちぱちと瞬かせた。
「……ほんとう?」
「本当よ」
大好きな母親に抱き締められても、なかなかリディアの不安は消えなかった。けれど抱かれた腕にあやすように揺らされている内に、心のもやもやは眠気に変わり、アウローラが気付いた時には少女は夢の中にいた。


「それは祈りの声に似た」(幼馴染み)より



気が付くと、真っ黒な闇の中にいた。
ああ、夢だ。毎日見ている夢。眠るたびに襲ってくる、逃れられない夢。彼は身震いして瞼を閉じた。
そうして祈る。強く、強く。どうか光が見えませんようにと。いつも彼の夢に出てくる光は、淡く優しいものではまったくなく、すべてを暴力的に塗りつぶすものでしかなかったから。
けれど彼は半ば諦めてもいた。ここは自分の夢の中だというのに、どれだけ強く念じても、この願いが叶えられたことはなかったのだ。
無音の世界を揺るがすように、破壊的な音が轟く。同時に恐れていた光が弾け、明暗の境界線がくっきりと生まれた。
灰紫の瞳を大きく見開き、少年は立ち竦む。夢なのだとわかっているはずなのに、恐怖に少しずつ頭が混乱していく。世界と一緒に凶悪な光に飲み込まれていきながら、これが今見ている夢なのか、それとも実際に起こった過去の出来事なのかの区別がつけられなくなっていった。
光が熱を帯び、形を帯びて、真っ赤な炎へと姿を変える。それが襲いかかってくるような錯覚に思わず目を瞑って顔を庇う。次に開いた時には、周りの景色は一変していた。
使い慣れたソファに火が移るのを見て、慌てて飛び退く。目を瞑ってでも歩けるほどに慣れた部屋のはずなのに、四方を炎で塗り固められて、どちらに逃げればいいのかわからず動けない。もたもたしている間に煙を吸い込み、思いきりむせてしまう。もともと気管支が弱いのだけれど、今は発作を起こしている場合じゃない。収まれ収まれと念じながら咳き込んでいるうちに、涙腺が緩んできた。
痛い。喉だけでなく、腕も、足も。空気が肌をひりつかせる。凶暴に燃えさかる炎が生み出す光と闇が容赦なく網膜に襲いかかってくる。世界が真っ赤に染まっていた。ほんの数時間前までは様々な色彩に彩られた豪奢な調度品が、ぼろぼろと崩れて黒に塗りつぶされていく。
このまま死ぬのかな、とぼんやりと思う。そう自覚したとたん、死にたくない、と強烈に思った。恐怖を振り払うように顔を思いきり振り上げる。炎が、彼を脅かすものがやってくる方向を睨みつけて、ふとそこに人影があることに気付いた。
黒い煙の合間から、見知った顔が姿を現す。どす黒く染まった顔をひどく凶悪に歪めているのを見て、彼は訝しげに眉を寄せた。
父上、と呼びかけると、もとは端正なその顔立ちがますます歪む。僅かに口元が動き、呪詛のような言葉が響いた。
お前は生まれてくるべきではなかった。
何、と問い返す間もなく、真っ直ぐ突きつけられた銃口に、彼は信じられない思いで目を剥いた。

「――――――やめろ!」

無我夢中で腕を振り、当たった毛布の軽い感触をはねのけて、横たえていた半身を勢いよく起こす。全身を使って必死に呼吸を繰り返し、やっと自分がベッドの上で眠っていたことを意識した。
ただの夢だと、うるさい鼓動を宥めながら自分に言い聞かせる。けれど、実際に現実に起こったことでもある。いつになったら夢に見ることがなくなるんだろうと思いながら、深く溜息をつく。ふと自分以外の息づかいが聞こえて、エドガーは素早く顔を上げた。
「……だいじょうぶ?」
 幼い少女の声がそっと囁く。ベッドから少し離れたところに彼女の存在を認めると、エドガーは顔をしかめて視線を外した。



「夜明けに見る光」(えせ兄妹)より